人間翻訳はAI翻訳に勝てないか?人間翻訳はAI翻訳に勝てないか?

コロナで生き残れる仕事は何かの議論があり、その中で翻訳はAIの勢いに潰されるのではないかと疑いがかけられております。さて、そのような疑いをかける人は翻訳がどのように面倒な作業かをわかっていない人だと思われます。

たしかに、ソフトウェアのバージョンアップごとに発表される新規仕様であるとか、毎期発表される決算発表は数字を変えれば済むという程度かも知れず、これらは機械翻訳か、または積み重ねたエンジンによる翻訳で済んでしまうかも知れません。

しかし、その新規仕様が、翻訳エンジンに入っていない語句の場合は、途端に誤訳、あるいは不適当な翻訳になりますし、また決算発表の場合も、その決算での「注記」があるため、今までの会計概念では訳せない場合、新規の表現にしないと決算発表の資料とはなりえません。このような時にどう表現するのかが、プロの仕事になると思われます。エンジニアや公認会計士は、毎回出てくる表現はコピーでも済みますが、このような時にはプロとしての腕が現れます。

私も経験がありますが、ソフトでも決算発表でも、日米に何らかの差があるため、通常の翻訳では済まない時があります。また、アメリカでその技術や考え方がスタートした場合は、それを日本語にして良いかどうかという問題も出てきます。その問題については日本の役所の数人しかわからないという場合さえあり得ます。こうなったら到底AIの範疇を超え、人間に出て貰うしかありません。

私の好きな小説に夏目漱石の草枕があります。ご存知の通り、その冒頭は「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という文章で始まります。

これをGoogleの機械翻訳にかけたのが下記になります。
While climbing the mountain road, I thought like this. If he works with wisdom, he will be angry. If you let the emotions flow, you will be swept away. It's cramped if you're willing. Anyway, the world of people is hard to live in.

英訳はしていますが、翻訳の仕事にはなっていません。他の機械翻訳にかけても英訳はされていますが、著者が言わんとしている意図にはほど遠い翻訳です。

今度は人間の翻訳を示します。アラン・ターニーの英訳です。
Going up a mountain track, I fell to thinking. Approach everything rationally, and you become harsh. Pole along in the stream of emotions, and you will be swept away by the current. Give free rein to your desires, and you become uncomfortably confined. It is not a very agreeable place to live, this world of ours. 
(THE THREE-CORNERED WORLD、ピーター・オーウェン・リミッテッド社p7)
漱石の言わんとしている言葉かどうかはともかく、少なくとも翻訳にはなっていますよね。機械翻訳と比較すれば人の翻訳がどれだけ、優れているか、納得できます。

筆者が先月に和訳したPaul Bruntonの哲学の一文を機械翻訳にかけて見たのですが、機械翻訳の大きな欠点がわかります。英文は"The paradox is perfect: when he is most empty of petty ends, the shining glimpse reveals itself."です。
GoogleではないDeep Proという翻訳機械にかけると次のようになりました。「些細な目的のために彼が最も空っぽになっているときに、輝く片鱗が現れてくるというパラドックスは完璧です」
この最初の「些細な目的のために彼が最も空っぽになっているときに」が英語に囚われ過ぎている訳で、これを「些少のことには目もくれなくなったとき」と訳せば、後の文章に繋がります。つまり、機械翻訳が機械でしか考えられない翻訳を人間の思考で変えること、それが人間の翻訳になると思います。
つまり、機械が今後どんなに進んでも逐次の翻訳しか考えられないのに対して、人間の翻訳は全体感を把握し、心に触れる細かな文章の添削を進めるという高度なものとなり、それは今後20年経っても変わらない形態ではないかと考えられます。

また、翻訳業界で未だに大きく変わらないことは意訳をしないという風土です。しかし、英語と日本語という文化が違うのに同じ土俵で表現だけ変えるという翻訳は文化に迫る言葉にはなりません。例えばマーケティングの世界では意訳をしないと翻訳にはなりません。特にファッション、エンターテインメントの分野では意訳をしないと異なるメッセージとなってしまいますよね。

下記のキャッチコピーはアメリカの有名メーカーのキャッチコピーです。
先ず、Everywhere you want to be はアメリカのクレジットカード会社、Visaのキャッチコピーです。「あなたがどこにいてもVisaはついていきます」というキャッチが込められていてとても良いコピーですが、日本語のコピーはどう翻訳するか、工夫が必要です。

intel insideはアメリカの半導体素子メーカー、Intelのキャッチコピーです。「インテル、入ってる」という日本語訳訳が定訳だそうですが、これ以上の物は出ないと思います。

Between love and madness lies obsession.アメリカのファッションブランド、カルバンクラインのキャッチコピーです。これを機械翻訳に入れたら「愛と狂気の間には執着がある」となりました。これでは困りますよね。

このような一流のキャッチコピーに対して本文(ボディーコピー)が続きます。これも流れるような日本語にしないと折角のキャッチコピーが台無しになります。

このようなキャッチコピーとそれに続く本文の翻訳は機械翻訳ではとても対応が出来ません。腕の良い日本人やアメリカ人あるいはそのチームに寄らないと出来ません。時間が普通の翻訳の数倍がかかるので翻訳代金も数倍から数十倍になります。 経験豊富な翻訳者にこのような仕事が来たとき、翻訳者の稼ぎ時となります。

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